るまるにっき

Daily record 2018

なんとなく植物

連休明けの月曜日、午後、雨が降っている。曇天による頭痛もちの人たちはきっと辛いことでしょう。私も少し頭が痛むので、今さっき頭痛薬をモモジュースで流し込んだところです。

軽い眠気、暖色の明り、仕事のない日常と不安、復帰することへの恐怖、職業安定所に足が向かない。好きなことをやりなさい、その言葉を愚直に信じて過ごしている日々。同じ大学の農学部の先輩の元でたまに野草の手伝いをさせていただいているのですが、それがとても心地よく、好きだと感じる。カラスノエンドウを束ねて、水で軽く洗って、天日干しする。そういう作業をある日の夏を感じさせるくらい暑い午後、一人で黙々と手伝っていた。流れるラジオの音を小耳に挟みながら、時々トークに微笑んだりして、カラスノエンドウを、束ねていた。これはいずれお茶になるらしいし、他にはレストランへ運ばれるそうだ。野草、というよりは失礼ながら、雑草という認識のほうが強い植物だけれど、付加価値や利用用途はきっと古く昔から存在して、しかし現代は、それをすっかり昔においてきてしまっているだけなのかもしれない。その価値は、いまもきっと気がついてくれる誰かのことを待っている。私たちの身近な生活の周りで、静かに再生を繰り返しながら。

その一件で、どうにも周りの植物のことになんでも興味が沸くようになってしまい、とくに、よもぎはつい摘んでしまいたくなる。しかし我慢する。動物の糞尿がもしかしたらあるかもしれないし、まあ、その排泄物も土に循環していくだろうし、だからあえて道端ものものは採らない。かといって、よくわからない敷地に生えているいるものも、採らない。土地を所有している人がきっと他にいらっしゃるはずなので。そこまでして、私は自然の恵みに貪欲になれない。モラルは守らないと、人としていけない気がして。

しかし自然にとっては区画など知ったことではないんだろう。人が隔てた規則というものは本当に、不確かで、もどかしい。お互いか関わることによって、首輪をつけあっているような気もちになるんです。自然と静かに生息する草花には聞こえない、人間のねっとりした声。人にしか味わえないものがあると喜ぶ声もあるだろうけど、今の私には辛いことの方が多い。植物は喋らない、当然だけど。

しばしその世界に触れ続けていようと思い、今日も何と無く過ごしている